2009年11月30日月曜日

2008年4月号 「ガンを撲滅する」



ガンを撲滅する

第1ヨハネ3章8節は、「イエスが来られたのは、悪魔のしわざをうちこわすためです。」と語っています。イエスは、「信じる者たちに同じわざを行うように」との任命を与えられました。実際のところ、イエスがなされたよりも、さらに大きなわざを行うことになるのです。それは、天の御父が御子イエスによって栄光をお受けになるためです。(ヨハネ14:12-13)このことができるのは、私たちのうちにおられる聖霊の方が、私たちに立ち向かって来る敵よりも、はるかに偉大なお方だからです!(第1ヨハネ4:4)
  敵は「盗み、殺し、滅ぼす」盗人としてやって来ます。しかし、イエスが来られたのは、敵のしわざを打ち壊し、私たちが豊かにいのちを受け取るためです。ルカ1019に約束された権威と、私たちのうちにおられる聖霊の御力によって、そのことを行うことができます。私たちはこの真理を知るときに、自由になります。(ヨハネ8:32)言い換えれば、この真理は、私たちが癌を打ち壊す権威の中に前進することを可能にしてくれるものです。癌は敵のもたらす病であり、神の民に死を引き起こします。この癌という病は、イエスが私たちを贖い出してくださったはずの「呪い」の一部分です。(ガラテヤ3:13
ヨハネ8:44で、イエスが語っていることに注目してください。敵は偽りの父であり、彼のうちには真理がないのです。イエスは「わたしが真理である。」と言われました。真理には証拠があります。それが真理である所以(ゆえん)です。偽りには証拠がありません。言い換えれば、偽りには、ある事柄を証拠立てるだけの裏づけがないのです。そのため、敵があなたに何かを語ったとしても、それは真理ではありません。偽りです。偽りは、御言葉の中に「むなしさ」として言及されています。詩篇31:6には、このように言われています。「私は、むなしい偶像(あるいは、偽りのむなしさ)につく者を憎み、主に信頼しています。」つまり神様は、私たちに偽りに信頼を置いて欲しくはないのです。真理に信頼すべきです。「むなしさ」という言葉には、「空虚さ」もしくは「惑わせる」という意味があります。敵が「あなたは癌だ。」と言う時に、それは、敵が投げかけてくる「偽りのむなしさ、症状」です。私たちを惑わそうとする「空虚さ」なのです。敵のゴールは、私たちに偽りを信頼させ、私たちから真理を盗むことです。ヨナ書28はこのように言っています。「むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます。」
言い換えれば、「偽りを信じていたならば、信仰を引き起こす真理の中には前進できない」ということです。不信仰とは、真理を信じないことではなく、偽りを信じることです。「偽りのむなしさ」という器は、「自分が癌である」という事実を信じ、受け入れるまで空っぽです。「自分が癌である」それこそが偽りなのです。真理は、「イエスがあなたの病(癌)を負って下さったので、あなたにはその病を負う必要が無い」ということです。偽り(癌)が成し遂げたいのは、「真理ではなく、悪い報告を積み上げることによって、私たちの信仰体系を構築することで、自然界(見える領域)の中で、実在するものとしてその姿を現す」ことです。敵は誘惑者です。様々な症状を用いて、その病気を受け入れるように仕向けてきます。悪い報告を受け入れてしまったなら、敵の土俵に引きずり落とされ、敵の土俵で相撲を取り続けさせられることになります。病気の症状が、ひどかろうが軽かろうが、痛々しげであろうが無かろうが関係ありません。その症状の程度によって、「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(Ⅰペテロ2:24)という真理の適用範囲に差を生じさせてはいけません。
戦場は、私たちの思考回路、思いの中にあります。この思いが真理に置き換えられて一新される必要があります。その結果、私たちの思いが偽りを信じなくなるのです。「偽り」という器は、私たちがそれを満たすまで空っぽです。真理から生れてくる信仰の働きを通じて、神の力は適用されて行きます。私たちの肉や一新されていない思いは、「自分が癌であるという悪い報告を信じないなら、現実から目をそらしていることになる。」と考えます。自然界では、その報告を受け入れないなら、癌から目をそらしていることになります。神の御国においては、その報告を受け入れないなら、癌の存在自体を否定することになります。あなたが癌を自分の手で握るまで、癌があなたを所有することはできないのです。
どこが戦いの場であるのかを明確にするのはいいとして、癌を自分のものとして抱え込まないで下さい。 それはあなたの物ではありません。悪魔の所有物です。聖書の最初の章を読んだところ「癌があれ。」と言っていませんでしたが、癌の出所は分かりました。アダムたちの堕落の結果として、罪や癌が生じたのです。しかし、イエスはそのような呪いの全てから、私たちを解放して下さいました。啓示がもたらされるとき、その啓示が私たちの目を「真理が、偽りという火をつねに打ち消してくれる」ことに開いてくれるでしょう。実際のところ、偽りを暴くのは真理です。真理を知るまでは、私たちの知っていることの全部が偽りなのです。真理は私たちに啓示を与え、偽りから自由にしてくれます。癌よ。お前は私たちに対して何の権威も持っていないのだ!



2009年11月26日木曜日

2008年2月号 「勝利の花嫁」



勝利の花嫁

新しい年を迎えるにあたって、私たちは自らに向かって次のような質問をする必要があります。「神様は今年、私をどのように用いたいと願っておられるだろうか?」「神の御国を確立するために、どうすればより効果的になれるのだろうか?」あまりに多くの場合、「神様に何を捧げられるのか」ということよりも、むしろ「神様から何をいただけるのか」ということに、私たちは期待を掛けてしまっています。神の御国で効果的になれないのは、私たちが常に「貧しい」からです。神様の息子や娘として自分たちが実際に持っている物ではなく、自分たちが持っていない物に焦点を合わせているのです。今年は、去年よりも一層素晴らしい年になる必要があります。私たちが今年前進することで、マタイ6:10「御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」を実現して行くならば、神の御心を実現することによって、この世界に神の御国をもたらすことになるでしょう。

神様は御自身の持っておられる物を私たちに受け取って欲しいのです。しかし、そうするためには、自分たちの人生の中で神様の御心を果たすことだけで良いのです。私たちの備えは、地上ではなく、天にあります。マタイ6:33で、「神の国をまず第一に求めるならば、あなたがたが必要とする全てのものはあなたがたに添えて与えれるであろう」とまで、神様は言っておられます。欠乏するのは、私たちがこの世の備えに焦点を合わている時です。神の御国に貧困はありません。御国の富を運搬するための鍵は、自分たちの願いではなく、神様の御心を行うことの中にあります。生まれながらの人間の傾向は、神様の事柄を追い求めるだけで、その事柄を与えて下さる神様御自身は追い求めないことです。自分自身と自分の必要に焦点を合わせる時に、私たちは貧しくなって行きます。神の国の思考法は、自然界を越えた領域に私たちを移してくれます。自然界では、自分たちの持っている物が、自分たちに出来ることを決定します。しかし、御国において違いをもたらすものは、「あなたがどれだけ持っているのか」ではなく、神様がどれだけ持っておられるのか」なのです。ピリピ4:13に言われていることが真理であるならば、「私たちは、私たちを強くしてくださる方によって、どんなことでもできる」のです。この節にある「強くしてくださる」という言葉は、「能力を与える」または「可能にする」という意味です。すなわち、私たちが神様の御心を地上で果たす時に、私たちは神様を通して働くことができ、私たちが生きている領域に神の御国をもたらすために、神様は私たちに能力を与えて下さいます。
 あまりに多くのクリスチャンたちが、王のことは知りながらも神の御国に気づいていないために、神様の備えに不足しているのではないでしょうか。彼らは、携挙が起きた時にもたらされる「将来の御国」を信じているだけです。確かに、イエス様が御自分の花嫁のために戻って来られるときにもたらされる「将来の御国」はあります。しかし、天に御国があるように、今のこの時代に、この地上で確立されなければならない御国もあるのです。マタイ6:10は「天で行われるようにように地でも」と言っています。もし、この勝利の花嫁が「自分たちを通して、神の御国がもたらされる」ことを信じていないのなら、この花嫁はまだ勝利していないのです。「勝利を修める」という終末論的見地を持つ必要があります。それなしには、「自分たちが失敗しまった。イエス様がその失敗の穴埋めをするために天から来られるまで、この地上で私たちは辛抱して暮らしていなければならない」と、ただ信じ込まされているだけなのですから。しかし、マタイ16:18-19を読んだなら、どうして失敗の中に生き続けることが出来るというのでしょうか? そこには、こう言われているからです。「神は、この地上にご自分の教会を建て、地獄の門もそれに打ち勝たない。」 19節を見るなら、私たちが全ての権威を持っている理由が分かります。それは、私たちが天の御国のかぎを持っているからです。何でも地上で解いたり、つないだりするなら、天でも解かれたり、つながれたりしているからなのです。

このことを、自分たちの霊の中で絶対的な真理として受け入れたならば、今まで教会が経験したことのない超自然的領域を、私たちは活性化し始めることになるでしょう。これまでの「被造物の中で生きる」生活から、「復活の力を伴ったキリストの体として創造主の中にあって生きる」新しい生活への転換が私たちには起こることでしょう。この使徒的権威の領域においてこそ、勝利の花嫁が「イエスのために都市を勝ち取る」ための戦略を準備し始めるようになるのです。


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