2009年11月26日木曜日

2008年2月号 「勝利の花嫁」



勝利の花嫁

新しい年を迎えるにあたって、私たちは自らに向かって次のような質問をする必要があります。「神様は今年、私をどのように用いたいと願っておられるだろうか?」「神の御国を確立するために、どうすればより効果的になれるのだろうか?」あまりに多くの場合、「神様に何を捧げられるのか」ということよりも、むしろ「神様から何をいただけるのか」ということに、私たちは期待を掛けてしまっています。神の御国で効果的になれないのは、私たちが常に「貧しい」からです。神様の息子や娘として自分たちが実際に持っている物ではなく、自分たちが持っていない物に焦点を合わせているのです。今年は、去年よりも一層素晴らしい年になる必要があります。私たちが今年前進することで、マタイ6:10「御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」を実現して行くならば、神の御心を実現することによって、この世界に神の御国をもたらすことになるでしょう。

神様は御自身の持っておられる物を私たちに受け取って欲しいのです。しかし、そうするためには、自分たちの人生の中で神様の御心を果たすことだけで良いのです。私たちの備えは、地上ではなく、天にあります。マタイ6:33で、「神の国をまず第一に求めるならば、あなたがたが必要とする全てのものはあなたがたに添えて与えれるであろう」とまで、神様は言っておられます。欠乏するのは、私たちがこの世の備えに焦点を合わている時です。神の御国に貧困はありません。御国の富を運搬するための鍵は、自分たちの願いではなく、神様の御心を行うことの中にあります。生まれながらの人間の傾向は、神様の事柄を追い求めるだけで、その事柄を与えて下さる神様御自身は追い求めないことです。自分自身と自分の必要に焦点を合わせる時に、私たちは貧しくなって行きます。神の国の思考法は、自然界を越えた領域に私たちを移してくれます。自然界では、自分たちの持っている物が、自分たちに出来ることを決定します。しかし、御国において違いをもたらすものは、「あなたがどれだけ持っているのか」ではなく、神様がどれだけ持っておられるのか」なのです。ピリピ4:13に言われていることが真理であるならば、「私たちは、私たちを強くしてくださる方によって、どんなことでもできる」のです。この節にある「強くしてくださる」という言葉は、「能力を与える」または「可能にする」という意味です。すなわち、私たちが神様の御心を地上で果たす時に、私たちは神様を通して働くことができ、私たちが生きている領域に神の御国をもたらすために、神様は私たちに能力を与えて下さいます。
 あまりに多くのクリスチャンたちが、王のことは知りながらも神の御国に気づいていないために、神様の備えに不足しているのではないでしょうか。彼らは、携挙が起きた時にもたらされる「将来の御国」を信じているだけです。確かに、イエス様が御自分の花嫁のために戻って来られるときにもたらされる「将来の御国」はあります。しかし、天に御国があるように、今のこの時代に、この地上で確立されなければならない御国もあるのです。マタイ6:10は「天で行われるようにように地でも」と言っています。もし、この勝利の花嫁が「自分たちを通して、神の御国がもたらされる」ことを信じていないのなら、この花嫁はまだ勝利していないのです。「勝利を修める」という終末論的見地を持つ必要があります。それなしには、「自分たちが失敗しまった。イエス様がその失敗の穴埋めをするために天から来られるまで、この地上で私たちは辛抱して暮らしていなければならない」と、ただ信じ込まされているだけなのですから。しかし、マタイ16:18-19を読んだなら、どうして失敗の中に生き続けることが出来るというのでしょうか? そこには、こう言われているからです。「神は、この地上にご自分の教会を建て、地獄の門もそれに打ち勝たない。」 19節を見るなら、私たちが全ての権威を持っている理由が分かります。それは、私たちが天の御国のかぎを持っているからです。何でも地上で解いたり、つないだりするなら、天でも解かれたり、つながれたりしているからなのです。

このことを、自分たちの霊の中で絶対的な真理として受け入れたならば、今まで教会が経験したことのない超自然的領域を、私たちは活性化し始めることになるでしょう。これまでの「被造物の中で生きる」生活から、「復活の力を伴ったキリストの体として創造主の中にあって生きる」新しい生活への転換が私たちには起こることでしょう。この使徒的権威の領域においてこそ、勝利の花嫁が「イエスのために都市を勝ち取る」ための戦略を準備し始めるようになるのです。


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